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特集記事


シリーズ『次世代につないでいく(7)』 施設の「ふつう」ってなんだろう



S学園成人寮(横浜市内)には購買部があった。昼休みの時間帯に事務職員が歯磨き粉・歯ブラシ・石鹸・ノート・鉛筆・ちり紙等々の日用品を事務所前で店開きをする。現金を握りしめた寮生が一人で、或いは職員に添われて生活必需品を買う。菓子などの嗜好品は置いていない。学園の坂を下ったバス通りには商店街があった。が、購買部の試みは当時(昭和 45 年頃)の施設における先進的な取組であった。施設関係者から高い評価を受けていた。

しかし、寮生が小遣いで坂下の商店で買い物する発想が施設人には浮かばない。日曜日は所在なく施設の敷地内をぶらぶらと暇を弄ぶしかない。また、歩いて 30 分足らずで駅前商店街に行ける。レコード店があった。ドーナツ盤の流行歌を買うことができる。ある日曜日、I 君とヤマちゃんと諮って、駅前レコード店でザ・ドリフターズのズンドコ節を買ってくる冒険を実行した。二人は「園長に内緒だよ」を守ってくれた。

秘密の買い物に一部男性職員が加わり、駅前商店街の買い物は寮生たちの楽しみとなっていった。国道を横切るという危険もあったが、理解力の高い寮生に障害の重い人を組み合わせて買い物を企てた。辞表を机の引き出しにしまって彼等の帰りを待った。ドキドキだったが、秘密の買い物を続けるわけにはいかない。職員会議に事の次第を報告して、日曜日の自由な買い物、必要な利用者にはボランティアの同行を提案した。

園長はすでにすべてを承知していて購買部の廃止に同意した。僕らは釈迦の掌で粋がっていた孫悟空だった。少なくない職員が園長の考えを忖度して、秘密の買い物に加わらなかった。職員間の感情が険悪になる場面もあった。が、利用者の意思を聴き、彼等の意志を実現することが指導だと思って仕事してきた。


シリーズ『次世代につないでいく(6)』 就学猶予への取り組み



現在、児童福祉施設の子どもたちは学校に通っている。が、50年前のH学園ではゼロだった。就学免除・猶予児童である。この言葉を知っている施設職員も少なくなったと思う。
「何で学校に行けないの」、就任直後から会う職員ごと問うた。学童期の子どもたちは教員免状を持つ職員が学科指導を実施していた。
「私たちの教科指導の限界は判っているの。でもねー・・・」、そこで思考が止まっていた。
生意気な新人職員である僕は「憲法第26条を知っていますよね」
「子どもたちの未来を僕らの事情で奪っていいんですか・・」、と言掛りめいた論争を仕掛けていた。
「ひとしく教育を受ける権利を有するって知ってますよね」「H学園の子どもはどうしてひとしくから除け者にされているだろう」「学園から10分のM小学校に通えないのですか」。
嫌な奴だったと思う。嫌味な新人『就学猶予への取り組み』職員の「教育を受ける義務から学習権を!」の勉強会の呼びかけに職員が集まった。誰もが現状を変えたかったのだ。集まりを重ねた2年目の秋、八王子市教育委員会と学園の交渉が始まった。昭和44年の春から八王子養護・一中特学に10名余、M小学校普通学級にポッポちゃんと照ちゃんが通うことになった。養護学校義務化を14年先んじて実現させたが、障害の重い子どもたちは施設に残されたままであった。
しかし、学校を卒業した子どもたちを支える指導は学校教育の領域ではなかった。H学園には成人施設がない。企業就労後のアフターケアを得る機会がなかった。子どもたち一人ひとりの生き難さの多くの物語がそこから始まる。


シリーズ『次世代につないでいく(5)』 一年目の挑戦



昔々、立春から二百十日、二百二十日頃に台風が襲来していた。H学園では子どもたちと一緒になって嵐を迎える。隙間だらけの雨戸が、風で飛ばされないように釘打ちする。園舎を直撃する風と雨に小さな子たちは怯えるが、年長児は吹き込む雨水を雑巾で絶え間なしに拭取る。風が弱まると、学園を挟んで流れる二本の川が、龍のうねりと咆哮が呼び合うように大荒れに荒れる。全職員が子どもたちの布団の間に入って、まんじりともしないで夜明けを迎えた。

園舎がゆさゆさ揺られた台風の体験を台本に仕上げた。東京都児童施設演劇祭に出演した。学園の行事では、障害の軽重を基準に別々に扱われてしまう。それが気に食わなかった。康ちゃんや要坊が参加できる、子どもたち皆が主役の劇構成を一緒になって創った。全員が舞台を躍動し、駆け抜けた嵐の後に、置いてけ堀になった一雄君が散った落ち葉を拾い集めていた。

スポットを浴びて、何時もの石拾いを舞台上で怯むことなく続けていた。

劇は特別賞をもらった。精薄児施設が賞をもらうことが少なかったので、しばらく話題になった。障害の重い子は臨海学校にも招かれない。相撲や歌謡ショー等の招待から外される。いつも留守番だ。
その子どもたち全員と山中湖に出かけた。歌舞伎町に店をもっていたフジ君の親の別荘を借りた。寝小便の布団を干す、便失禁の洗い物をすることもあったが、湖畔でのファイヤーと花火は楽しかった。

以上は、就職一年目の挑戦だった。

先輩を差し置いて生意気な職員だったのだろうと思う。が、みんなで一緒に駄弁り、考え、行動することが楽しかった。駄目だろうと思うことが実現する。そんな日々が仕事であった。


シリーズ『次世代につないでいく(4)』 達磨 だるま さんがころんだ


てらん広場から望む【富士山】

昭和 41 年、多摩地方の山間にある児童施設「H」に転職した。
「H」は昭和 33 年に開設。台風に直撃された時、木造の建物全体がぐらぐら揺さぶられる代物だった。戦後の貧しさが滲み出ていた。一部屋に 10 人の子が寝る環境だった。が、生活は活き活きとしていた。零下 7度の寒中、素足での雑巾がけから一日が始まる。
親と暮らした記憶のない子、帰省できない家庭環境の子が大半だった。半世紀経った今、康ちゃん・要坊・
ムー・・・鬼籍に入った子も少なくない。その時の子が 6 名、横浜のGHで暮らしている。長い付き合いだ。

が、この仕事-人との関わりの妙味でもある。
丹沢山塊に沈む赤々とした夕陽に出会うと、ふと、あの頃のことを思い出す。

お盆過ぎ頃から赤トンボが園庭を飛び交う。彼岸を過ぎて月が替わると、遊びに興じていた絶頂で陽が一気に沈む。「もう終わり」、と名残惜しみながら、子どもたちは赤トンボを掻き分けて帰寮する。

還暦を過ぎた子等と昔を語る時、誰もが、決まって「達磨さんが転んだ」に夢中になっていた無心な自分に出会う。最重度の幼児から企業実習に出ていた子等が、一緒に興じることができる遊びが「達磨さんが転んだ」、だった。
住み込みの仕事を得て、結婚し、夜間中学校に通い、子を産み、別れて子育をしたK女。彼女にとっての家庭
的時空とは、この無心で遊びに興じた昔日の面影だった。精神病院入院中に、母は彼女を出産。母と暮せばと
の記憶はない。施設の中で育まれ、社会に巣立っていった。今、幻視に翻弄されていた苦悩は消えた。穏やかな
老いの日々に身を委ねている。人が生きる、その生に添う仕事が同愛会だ。


シリーズ『次世代につないでいく(3)』 せんせい、いつやめるの


【キンカン】てらん広場にてH29.12

精神薄弱児N園に初出勤したときにショウジさんから掛けられた言葉でした。この言葉の意味の苦さを知ったのは一年後でした。
小学校の巡回映画の題名は覚えていませんが、非行少年たちのドキュメントでした。今も、記憶が鮮やかに残っています。少年たちが寄宿舎で生活をしながら、学校で使う机や椅子を制作している姿、広い畑で野菜を育てている作業風景です。どうして、自分はあの施設にいないで、此処に居るんだろうか、と羨ましい思いを抱きました。
N園は映画を髣髴させてくれました。年末のクリスマス会には、近隣の山から刈り込んだ杉の枝で、高さ3メートル幅2メートルの門をつくります。講堂の窓には黒のラシャ紙を切り紙風に切り取って、何色ものセロファンを貼ってステンドガラスに仕立てます。日没からキャンドルサービスが始まり、天使の姿で現れた饒舌(ジョウゼツ)な山口君も、神妙な顔で子どもたちの列のなかをゆっくり歩いてキャンドルに火を灯します。
灯は一人ひとりの子どもらの行く末の幸せへの祈りでした。
この時期N園は変化の激しい気象に見舞われます。射していた陽を雪雲が遮り、雪しぐれが風に舞う寒さのなかで体を寄せ合っておやつを食べます。楽しい日々でした。 が、年度末、駅から「本日をもって退職します」、と電話を入れて東京に向かいました。尊敬していた副園長が辞職を迫られての抗議の退職でした。漱石の坊ちゃん風でした。今、思うと子どもたちや職員にとんでもない迷惑を掛けました。
こんな不良職員が今法人の代表をしています。52年前の苦い思い出です。


シリーズ『次世代につないでいく(2)』 志の出発点



昭和40年の真冬、氷結の石狩川を渡った汽車に乗っていた。車窓からの風景が雪の平原と一変した駅が目的地だった。上野駅から鈍行で丸二日かけて、木内神父が原野を拓いて建てた施設の話を読んで訪ねた。就職のための訪問だった。が、信仰をもたない者を迎えることができないと断られた。
東京に戻り精神薄弱児施設の所在を調べ、「手をつなぐ親の会」を知った。会の本部に足を運んだところ、三重の山奥の施設で農業指導員を求めている話を伺った。早々に出向いて門を敲いた。児童指導員に採用されたのがこの仕事の始まりだった。
人生が決まることの不可思議を今でも思い出す。大学進学に迷っていた時、勤労学生寮で暮らしていた先輩から女性週刊誌を手渡された。君が行くところは「此処」だ、と。それが北海道の施設だった。週刊誌で精神薄弱児という言葉を知り、そうか、中学校の同級生のシゲとカッパンのことじゃないか、と思い至った。 知的障害のある同級生のことだ。
教師に何故勉強するのか、との問いの答え、「いい学校に入って、いい会社にはいって、いい人生をおくるため」に反発したことを思い出した。勉強ができる人たちでつくる序列社会はおかしい。一つの林檎を皆で分け合う、そんな仕事が精神薄弱児施設だと理解して門をくぐった。以来50年が経過した。
人間の存在価値は、勉強ができる、できないではない。能力主義的な価値に基準をおかない世の中にしたいと考え、この道を歩いてきた。よかったと思っている。


シリーズ『次世代につないでいく(1)』 ピープル・ファースト ~自ら問いを発し答えを求めて行動を!~



地球上に生命が誕生して38億年、生物は細胞分裂を繰り返してきました。そのつながりの中に僕らは存在します。人間一人ひとりの存在は等しく尊いものです。しかし、現代社会では能力のみを優先して人の価値を図りがちだと思います。同愛会の役割は、障害のある方々に生きていることの肯定感と励ましを与えることです。
「人間の価値とは何か」同愛会はそのことを考えながら、障害を抱える方に寄り添った事業を運営しています。
1970年代のアメリカで知的障害をもつ少女が発した言葉『障害者ではなく、まず人間として扱ってほしい』がきっかけとなり、【ピープル・ファースト】という運動が世界に広まりました。根底には、『自分たちのことは自分たちで考えたい』という想いがあります。
これから進めようとしているのが、障害者の方々からのメッセージ発信です。
大阪の社会福祉法人が、知的障害者への理解を深めようと、独自にメディアを立ち上げました。障害者自らがインターネット番組を制作し、社会への問いかけや個々の想いを配信するというもの。同愛会もこれにならい、インターネットを使ったメッセージ発信を計画中です。ひとりの人間として自分たちが何を考えているかを語り、存在することの価値を呼び掛ける場をつくりたい。こうした取り組みが、障害者福祉の新たな時代を切り拓いていくと感じています。

※写真の白いTシャツの方が髙山理事長。「理事長」と呼ぶ職員はあまりいません。『高山さん』とみんなから呼ばれています。