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昭和 41 年、多摩地方の山間にある児童施設「H」に転職した。
「H」は昭和 33 年に開設。台風に直撃された時、木造の建物全体がぐらぐら揺さぶられる代物だった。戦後の貧しさが滲み出ていた。一部屋に 10 人の子が寝る環境だった。が、生活は活き活きとしていた。零下 7度の寒中、素足での雑巾がけから一日が始まる。
親と暮らした記憶のない子、帰省できない家庭環境の子が大半だった。半世紀経った今、康ちゃん・要坊・
ムー・・・鬼籍に入った子も少なくない。その時の子が 6 名、横浜のGHで暮らしている。長い付き合いだ。
が、この仕事-人との関わりの妙味でもある。
丹沢山塊に沈む赤々とした夕陽に出会うと、ふと、あの頃のことを思い出す。
お盆過ぎ頃から赤トンボが園庭を飛び交う。彼岸を過ぎて月が替わると、遊びに興じていた絶頂で陽が一気に沈む。「もう終わり」、と名残惜しみながら、子どもたちは赤トンボを掻き分けて帰寮する。
還暦を過ぎた子等と昔を語る時、誰もが、決まって「達磨さんが転んだ」に夢中になっていた無心な自分に出会う。最重度の幼児から企業実習に出ていた子等が、一緒に興じることができる遊びが「達磨さんが転んだ」、だった。
住み込みの仕事を得て、結婚し、夜間中学校に通い、子を産み、別れて子育をしたK女。彼女にとっての家庭
的時空とは、この無心で遊びに興じた昔日の面影だった。精神病院入院中に、母は彼女を出産。母と暮せばと
の記憶はない。施設の中で育まれ、社会に巣立っていった。今、幻視に翻弄されていた苦悩は消えた。穏やかな
老いの日々に身を委ねている。人が生きる、その生に添う仕事が同愛会だ。